2010年3月29日月曜日

大豆肉

近所のスーパーで、なんと大豆肉(鶏肉もどきのそれ)を発見。思わず沢山買いこみそうになったが、まずは一袋にとどめておいた。というのも、子どもの頃、生協で売っていたのだろう、母親が一時期はまって、これを使って唐揚げを作っていた記憶がある。13歳過ぎまで、肉といえば、ベーコンやソーセージ、ミンチ肉といった形でしか肉を口に出来なかった者としては、鶏肉のような触感をもつ何とも不思議な大豆製品に舌鼓を打ったものだった。いつしか家での流行も終わり、記憶からその存在も消え去っていたが、ここイスタンブールにてこの思い出とともにその味を楽しんだ。そもそもこの家庭内流行がおさまったのも、私が美味しいと言えば、母親は私が飽きるまで作ってくれていたのだから、きっと私が勝手に飽きてしまったのだろう。こういう小さな思い出を誰かに確認することも出来ず、一人で思い出しては記憶が二度と思い出されないことがあってはならないという気持ちでここに記している。

小学生の頃、何か記念的なことが起きたりすると、その一瞬一瞬が惜しくて、何かに書き残しておきたいという思いが人一倍強かった気がする。今また大人になって、このくせが出始めているのか、あるいは自分はちっとも変わっていなかったのかもしれない。

2010年3月17日水曜日

母親からの電話

友人とチャット中に、先方には母親から電話がかかってきたらしい。普段日中は働いているし、久しぶりのことだろうから、母親と話して、終わったらチャットを続けようということになった。一時間近くたったが、未だ電話は終わらない様子。そうこうするうちに先方からはメールが届いていた。ごめんね、でもいつも母親と話せるわけではないので、というすまなさそうな内容。それで今日のところはチャットを再開するのはやめておこうと思い、メッセージを返信してチャットのウィンドウを閉じた。
なぜだか泣けてきたのは、私よりも母親を選ぶの?などという可愛らしい気持ちからではなくて、自分にはこうした電話がかかってこなくなってから過ぎた年月の長さに思いを馳せたからだ。歳を重ねるのは、気持ちをどう処理すればいいのかという、自分との付き合い方が分かってくる点で楽だ。一方で、自分に妙に慣れてしまった自分自身が10年前からはずいぶんと遠いところにやってきてしまったことに改めて気づく。