2010年12月27日月曜日

〆サバ

〆サバに刻んだ赤い唐辛子が載ったものを食べたのは、大野城のあのスーパーの鮮魚売り場にあったから。スーパーの名前はもう覚えていないけれど、紺色と濃いめの水色が基調のスーパーだった記憶がある。母親がその〆サバをいつか買ってきてくれて、〆サバと赤唐辛子を醤油で食べる楽しみを覚えた。そうするといつものように母親は同じものをずっと買ってきてくれるようになった。あのスーパーの駐車場で、よっこらせと駐車する姿を覚えている。思えば50歳近くになって取得した自動車運転免許で、あのあたりを楽しそうに運転していたなぁ。博多駅周辺にも連れていってもらった。もっと一緒にドライブに行きたかったなぁ。どうしてもっと音楽カセットを録音してあげなかったんだろう。数本のカセットには飽きていたことを知っていたのに。本当に後悔ばかり。お母さん。

2010年12月10日金曜日

三つ子の魂百まで

今週は家庭教師との授業が上手くいかない。ある単語の意味をなかなか理解できずに誤った使用法で書きあげた文章を教師が見て、その間違いに驚いてみせる。そして、私が納得するまで説明に何十分も時間を費やす。仕舞にはこんな間違いをする生徒を人生で初めてみたとまで言う。人生、こんなことあってもいいんではないかね。これが二回ともの授業で続いた。
そこで思い出したのは、箕面のアオマダニ幼稚園のときのこと。お絵描きの時間に、(そこは仏教系の幼稚園だったので)山車に乗った園児たちの様子をクレヨンと水彩を使って描いていた。当時の園の制服は、確か白シャツに紺色のスカート・ズボン。それがどうして私の絵を見ると、子どもたちのシャツの色は肌色に塗ってある。先生はそれを見て、白色に塗り替えさせたいらしい。どうしてシャツを着ているのに肌色なのかを延々と説教され、先生は怒りだし、私はそうしたいからだと泣き出した嫌な覚えがある。今考えても、私はそうしたかったのだ。理由がなかったとしても。(大体において理由がしっかりしていなかったりするから、私の分が悪くなるのだけれど。)
これを思い出したのは、つまりは自分が納得しないことには指一本も動かしたくない、そんな自分はあのときからちっとも変わっていなんだなぁということ。懐かしい、でも未だに忘れない思い出。記憶の奥にしまってある。くやしかったんだろうな。3歳の私。

2010年10月18日月曜日

Lumpenproletariat

日本の叔母が持ってきてくれた新聞のコラムの中にルンペンという言葉が出てきた。何だか懐かしい響きをもった、でも長い長い間聞くことがなかった言葉。小学生の頃、男の子たちが使っていた言葉。改めてインターネット辞書を引いてみれば次のとおり。

ルンペンの語源は、布切れやボロ服を意味するドイツ語「Lumpen」である。「ごろつき」を意味する「Lumpenhund」や、マルクスが労働意欲を失った浮浪的無産者や労働者階級から脱落した極貧層を「Lumpenproletariat」と称したことから、日本では浮浪者などの意味で扱うようになった(語源由来辞典より)。

今はもあまり使われることもない言葉の一つになったでしょう。こうして言葉は生み出され、忘れられていき、淘汰されるのかな。

2010年9月26日日曜日

沢木耕太郎の本

いつの頃から彼の書く本を読むようになったのかきちんと覚えていないが、母が買う本の間に沢木耕太郎の名前があった。それが沢木本を読み始めたきっかけであることは覚えている。どの本を最初に読んだかも覚えていないが、一旦読み始めてからは彼の書いたものを一気に気に入り、それから段々と読むようになった。読んでいてここまで違和感の感じない作家はいない。恐らく自分が嫌いだと思うものの考え方、そしてものの感じ方が似ているのだと思う。少なくとも本に書いてあることから判断するには。こういう作家の書く本に出会えた自分は幸せだと思う。そして彼の本を新しく読み始めるたびに、読み終わってしまうであろうことが、どうにも惜しいと思う。ずっとその本の中にいたいと思う。そして時が経ってからも読み直す。それもまた格別。本を開けば、そこに沢木耕太郎の世界が広がり、自分も中に溶け込める。

2010年8月27日金曜日

気づき

叔母には10月にといっていたが、9月にイスタンブールに来てもらうことにした。こういうのは話始めたら事が決まるのは早い。何しろ旅は大きな楽しみだから。イスタンブールに来たら、隣の大家さんに紹介しようと思う。そのときのことを想像しながら、きっと叔母は大家さんに日本語で「まぁいつも姪がお世話になりまして」と言うだろうと考えるとふと可笑しくなった。それと同時に、私との関係でこうした挨拶をしてくれる人というのは、叔母と姉だけになったことに気付いた。私が母親に友人や知人を紹介するときに、必ず母親がするであろう挨拶であること、そして久しくそんな挨拶を聞く機会もなかったことを思った。これからもこういう機会は増えはしないだろう。願わくば自分がその挨拶をする番になるだろう。歳を重ねていくというのは、こういう経験の繰り返しなのかもしれない。ふと気付くか気付かないままか、そういう類のものだけれども。

2010年6月8日火曜日

塩野七生の本

『ロードス島攻防記』を読んでいたらキプロス島に行きたくなった。だから行った。
『コンスタンティノープルの陥落』に続いて、塩野七生の著作を少しづつ読み進めている。そもそも母親が特に関心を寄せて読んでいたせいで、家の本棚には多数の作品があった。あの頃は未だ関心が湧かずに、単に題名を眺めているだけだった。一番最初に手に取った塩野作品は、恐らく『ルネッサンスの女たち』。学校の宿題であった感想文を書くために読んだ記憶がある。今は内容を覚えていない。母親がかつて買い集めた本を読むたびに、母親自身がこれらの本を読んでいた時期に、何を感じていたのだろうと思いをはせるのは好きだった。過去について多くを語ることはなかった母親だったからだ。結局、私の好きな作家のほとんどは、母親の影響だ。沢木耕太郎、須賀淳子、塩野七生。母親のあの本たちはどこに行ってしまっただろう。

2010年4月28日水曜日

バレエ

9歳から18歳までバレエを習っていた。もうバレエを踊ることは出来ないけれど、バレエを始めとした踊り全般を観るのは今も好き。この4月はロシアからの「マタハリ」にバレエ・ガラに、大学のダンス祭へと踊りに触れる機会が多かった。でもイスタンブールにやってきていたシルヴィ・ギエムのモダンバレエを観る機会を逃してしまったのは非常に残念。踊り、特にバレエの何が好きかといえば、舞台の一瞬のために練習を重ねてきた、つまりは人々の生きざまがそこにあるから。もちろん華やかな夢物語が踊られていたりするけれども、最近はどうしてもその後ろまで見えてしまう気がする。そして何よりも、下手なりにバレエに打ち込んでいたあの頃の自分と、それを見守っていた母親、そして大野城での生活を思い出す。

2010年3月29日月曜日

大豆肉

近所のスーパーで、なんと大豆肉(鶏肉もどきのそれ)を発見。思わず沢山買いこみそうになったが、まずは一袋にとどめておいた。というのも、子どもの頃、生協で売っていたのだろう、母親が一時期はまって、これを使って唐揚げを作っていた記憶がある。13歳過ぎまで、肉といえば、ベーコンやソーセージ、ミンチ肉といった形でしか肉を口に出来なかった者としては、鶏肉のような触感をもつ何とも不思議な大豆製品に舌鼓を打ったものだった。いつしか家での流行も終わり、記憶からその存在も消え去っていたが、ここイスタンブールにてこの思い出とともにその味を楽しんだ。そもそもこの家庭内流行がおさまったのも、私が美味しいと言えば、母親は私が飽きるまで作ってくれていたのだから、きっと私が勝手に飽きてしまったのだろう。こういう小さな思い出を誰かに確認することも出来ず、一人で思い出しては記憶が二度と思い出されないことがあってはならないという気持ちでここに記している。

小学生の頃、何か記念的なことが起きたりすると、その一瞬一瞬が惜しくて、何かに書き残しておきたいという思いが人一倍強かった気がする。今また大人になって、このくせが出始めているのか、あるいは自分はちっとも変わっていなかったのかもしれない。

2010年3月17日水曜日

母親からの電話

友人とチャット中に、先方には母親から電話がかかってきたらしい。普段日中は働いているし、久しぶりのことだろうから、母親と話して、終わったらチャットを続けようということになった。一時間近くたったが、未だ電話は終わらない様子。そうこうするうちに先方からはメールが届いていた。ごめんね、でもいつも母親と話せるわけではないので、というすまなさそうな内容。それで今日のところはチャットを再開するのはやめておこうと思い、メッセージを返信してチャットのウィンドウを閉じた。
なぜだか泣けてきたのは、私よりも母親を選ぶの?などという可愛らしい気持ちからではなくて、自分にはこうした電話がかかってこなくなってから過ぎた年月の長さに思いを馳せたからだ。歳を重ねるのは、気持ちをどう処理すればいいのかという、自分との付き合い方が分かってくる点で楽だ。一方で、自分に妙に慣れてしまった自分自身が10年前からはずいぶんと遠いところにやってきてしまったことに改めて気づく。

2010年2月3日水曜日

年齢

いつも歳を重ねるたびに、多分それは15歳のころからだけれども、その歳になってみると、思い描いていた、あるいは憧れていたようなものとは違うことに気づく。自分がその年齢に見合っていない居心地の悪さのようなものを感じる。こう書くとそれは自分の自信のなさからくるものだとと受け止められそうだが、そうではないと思う。恐らくは、世間で想定されている歳相応の生活なり考え等々と、私自身が年齢を重ねていくペースが噛み合っていないんだと思う。死ぬまでこうしてズレを感じながら生きて行くのか、でも時たま、自分のペースが社会と合致すると嬉しくなったりもする。これも本当のところ。